DVD『さようならUR』を観る 畦地豊彦さんを偲びつつ
「70代、 ここの場所から ~『社会臨床雑誌』に載せて~」
篠原睦治 著 2019年5月18日 発行
社会臨床雑誌第20巻第3号(2013年3月発行)
≪映画や本で考える≫ DVD 『さようならUR』を観る~畦地豊彦さんを偲びつつ
篠原睦治
私たち夫婦は、70年代当初に、 多摩丘陵の一角を開発して作られた高幡台団地 (日野市)に最初の娘と引っ越してきた。ここで、3人の娘たちが生まれ育っていくのだが、70年代半ばには、同じ団地で、同世代の3人息子をもつ畦地豊彦さん一家と出会い、団地の内外でおつき合いが始まっている。
畦地さんは、臨床心理学会の学会改革時代に「遺伝子操作と優生学について」(『臨床心理学研究』19巻1号、1981年)、「優生保護法「改正」反対の視座一女と男そして子産み・子育て」(篠原と共著、『技術と人間』12巻5号、1983年)、「「体外受精」問題・その十の論議」(臨床心理学会編『早期発見・治療はなぜ問題か』所収、現代書館、1987年)などを書いているが、これらは、お互いの自宅を往復して議論しながら書いたものである。
団地の暮らしでは、「わが子もどの子も、地域の学校へ」を願って、「障害」児親子などと一緒に、「第三日曜の会」を催しつつ、彼の編集責任で、両家族ぐるみで団地各戸に配布するミニコミ紙 『ふきのとう』(1978.12~1986.12 100号まで)を発行してきた。
ところで、 畦地さんたちは、73号棟に住んできたが、2008年、UR都市機構(元住宅公団)は、この号棟の住民に立ち退きを要求しだした。この号棟だけは 11階建て(残りは5階建て)で、もともと約250家族がいたが、今日では、畦地さん宅を含めて7軒だけが住んでいる。そして、彼らは「追い出し」裁判の「被告」席に座らされている。
その彼が、今年(2012年)、1月27日に急逝した。そして、早や11ヶ月が経った。昨年の早春、ぼくは、「73号棟に住み続けたい住民の会」が呼びかけた集会で、完成したばかりの『さようならUR』(73分)を見たが、今年になって、これと、「制作秘話~未公開映像+完成から一年後の住民インタビュー」 (67分)などをまとめた DVD-R 二枚組で 商品化もされた。この間、「山形国際ドキュメンタリー映画祭 2011 スカパー! IDEHA賞」をとるなど、日本の内外で、その問題提起性と説得性・迫力が着目されていることは、うれしいことだ。
このように評価されてきた事態は、まずは、監督・撮影・編集の早川由美子さんが、この問題に対する重さを受け止めて、このことを映像化したい、しなくてはと思う情熱と実践に負っているのだが、(早川さん自身が記しているが)ここにせいいっぱい協力したのは、畦地さんだった。ぼくは、『ゆきわたり』(子供問題研究会機関紙)2月号で、「ぼくは、早川さんと短くしか会話を交わしたことがないが、 彼女が畦地さんから影響を受けている様子が察せられた。きっと彼女は、 彼に託された遺品として、この映画を大切にされていくのではないか」と記させてもらった。
ここでは、彼が登場している場面、語っている内容に焦点を当てながら、その文脈や風景を描きつつ、『さようならUR』の一端をいささか感傷を込めて紹介したい。
団地の各号棟は、コンクリートで作られた大きな箱である。そこに、さらに仕切られたカギ一本で出入りできる各戸がある。とはいえ、私たちの体験で言えば、各家族は、わが子たちが通い出す幼児教室、保育園、幼稚園、小学校などを介してつながってきた。そんな関係の広がりの中で(既に触れた) 「第三日曜の会」も生まれている。
もちろん、時の流れとともに、人々は出入りする。 子どもたちも長じて、家を出ていく。今日、この団地があってこそ生まれた高幡台小学校は隣りの学校へ吸収合併されて廃校になり10年が過ぎた。
ある時まで、私たちもそうだったが、盆休みになると、子どもたちを連れて、自分たちの実家に帰った。そのとき、家々の明かりがあちこちで消える。そして、帰宅した者同士は、帰省先からの土産を交換し合った。いま、子どもたちの実家(故郷) は、この団地なのである。
さて、本題に入るが、2008年春、この団地の大家、UR都市機構(旧住宅公団、以下UR)は、日時、場所を一方的に決めて「説明会」を開き、73号棟には耐震性に問題がある、といって耐震改修をするには金が掛りすぎる、2年以内に出ていくならば、引っ越し先を斡旋するし引っ越し費用を出すと提示してきた。
畦地さんは、この「説明会」には、「灰色の男たち」(M・エンデ『モモ』)が警戒的に立ち並び、住民のみを入場許可するといった物々しいものだったと証言している。
団地自治会は、当該号棟の解体と跡地の再開発計画を早々と認め、多くの住民は、この方針に従っていった。この映画では、この流れに怒る人、葛藤する人、淡々と拒否する人の様子を描いている。
UR側は、無理強いはしないと言いつつ、「契約解除」のときが迫っていると念を押しながら、一日に何回と電話を掛けてくるし、個別訪問をしてくる。津覇さんは、そのなかで不眠、耳鳴りに苛まれつつ、次第に体調を壊していく。それゆえ耐えられず引っ越すのだが、 「といってすっきりしない。 ずっと死ぬまで、このままだろう」と胸の内を語っている。
栗原さん一家では、父親と息子は「ここは、住み続けてきたところ、生まれたところ、移らない」と語るが、母親は、「(近所の人たちの)何で居るの? 補償を待っているの? などの中傷に耐えられない、疲れた。出ようよ」と言う。
畦地さんは、怒っている。まずは、73号棟住民も構成員である団地自治会に対してである。「彼ら自治会の役員たちは、あらかじめUR側の説明を聞いてしまって、早々と認めている。当該の号棟に 住む我々の生活する権利を無視することに対する痛みが全くない」と。そして、「ここから移って行った人の中には、まだ、この号棟が壊されていないことは苦痛だ、と言って、住んでいる我々に対して怒っている人がいる。このような対立構造を作ったのは誰か?!」とも。
このような URの施策と自治会のやり方は、住みあって来た者同士の関係を分断して対立させる。お互いの関係から言えば、結果論だが、UR側から言えば、「追い出し」戦術の読みの中にあるのだと、(既述の)津覇さん、栗原さん一家の体験からも明らかだ。
この映画は、対立構造を作りつつ、7世帯だけを残していく73号棟の実態を描いている。そして、今日、彼らを「被告人」としつつ「追い出し」のための民事裁判にまで持ち込んだUR側とその論理を明確にしていく。 (この映画は、彼らが立ち退き訴訟を起こしたという事実を知らせることで終わっているのだが。)
UR側で最初に登場するのは、「都市再生機構のあり方に関する検討会」委員、安念教授 (中大)である。彼は、「市場原理に任せていくしかない」と言い切りつつ、「73号棟解体は仕方がない」と明確に発言する。しかし、そのあとに続く言葉を見逃してはならない。「国の財政赤字は余りにも大きいから、URのは小さい」 と。これは、別のUR側人間の発言だが、ここでの「小さな削減」も、「天下り人事」問題のところでは解こうとしている様子がない。「天下りは社会的にくり込まれているから、URだけでは無理」と言うのだ。それは、庶民の暮らしのところから始まるということらしい。 暮らしの側からは大きな事態だ。
安念教授は、「いまや、団地の入居者の多くは若い勤労者でなく、高齢者、年金生活者である。 だから、家賃をそう簡単に上げられないので、いよいよ赤字を増す。だから民営化しかない。」と言いつつ、「高齢者・年金生活者=やっかい者」論を次のように語っている。「だから、入居者のものすごい反発を受ける。URが年寄りを説得するのは大変ですよ。それに、ここを票田として当てにしている議員たちもうるさいですからね」と。
民主党政権は、当初「事業仕分け」を行って、URも「組織と財政の合理化」を目指せとハッパをかけていた。そして国土交通省も、「検討会」や「事業仕分け」を受ける形で、「民営会社化は現実的に難しいとしても、政府予算を使わない特殊法人化などを考えていきたい」と発言している。
この映画を観ながら気づくことだが、このような、一見もっともらしい(したがって、マスコミも国民の多数派も同意しがちなのだが)主張や施策は、まずは、末端の暮らしの分断と破壊になっているという現実である。
畦地さんは、監督、早川さんを、団地を眺望できる丘の上に案内する。そして、その場で撮った3才のときの長男の写真を見せながら、木々が生い茂ってきた風景の変容に言及している。 そして、いま、「被告」とされた自分たちの立場を振り返って、 民事裁判は「本当かウソか」を問うのでなく、「どちらが強いか」で決着が着くので、このままだと、我々が負けると思うが、「我々の暮らしと主張は当然」と思う人々のコモンセンスが増えるかどうかに掛っていると、悲観的にも楽観的にもとれる発言をしている。彼が亡くなる数日前に、「私たちは運動をしているのではない。住み続けているだけだ。強いて言えば、住み続けることが闘いだと言えるかもしれない」と話してくれたことと重なっている。
一方で、畦地さんは、事態を巨視的、歴史的にも見ていた。映画にも、自室に並んだ関連書籍が映し出されているが、「 (73号棟問題を耐震性の問題として考えるならば)この問題は、新耐震基準(1981年)以前に建てられたすべての建物に問われている現在のことなので、ここで、この問題がうまく解決されるならば、この方式は他のところでのモデルになっていくよね。URのような公共性を持った団体でしかできないことですよ」 と語りつつ、「そのためにも、ねばってみる必要がある」 と、個々人の普段の暮らしを、いま、ここの日本社会のあり方という観点からも考え抜こうとしていた。
監督、早川さんは、このような畦地さんたち住民の暮らし、そこでの願い、葛藤、そして主張を描きながら、出勤途上の 「元内閣官房審議官、旧建設省住宅局長」の小川UR都市機構理事長に突撃取材をしている。そこで、取材を重ねてきた住民たちの声をぶつけながら、彼の応答を求めている。答えの内容は、既に紹介した (国や専門家を含む) UR側のと同様なので、わざわざ触れないが、早川さんは、UR側と住民側を往復しながら、終始、住民側の視点で描き続けようとしている。その優しさと勇気に感動し励まされる。
この団地の近くには、高幡不動尊がある。境内には5月から6月に掛けて咲き乱れる、さまざまな紫陽花の姿かたちが美しく懐かしく映し出されている。玄関先やベランダの鉢植えの花々も……。73号棟の各戸をつなぐ廊下側からは秩父連山が見渡されるし、朝な夕なに変わりゆく富士山を楽しむことが出来る。住民、佐川さんは、目覚めの早いお年寄りらしく、「日が昇る前の山際の風景がきれいで、とても気に入っているのよ。これから、そんなことが見えなくなってしまうのかと思ったり、こういうふうに過ぎていくことが、 この世のことと思って突き放してみるとか、もっと言えば、面白がって見るのもいいかなと思ってね」と味わい深く語っている。
2010年10月、URは、次第にシャッター通りになっていった、当該号棟一階に並んでいた商店街に代わる、商業施設の代替施設設置工事を始めた。(そして、いま、小さなコンビニが営業されている。)この映画のラストシーンは、畦地さんが、自宅のベランダから、あの人懐っこい、動かぬ眼(まなこ)で、この風景をじっと眺めているところで終わっている。そして暗転し、「2011年1月、URは、73号棟の7世帯の住民に対し、立ち退き訴訟を起こした」という字幕が浮き上がる。
このときから、約1年、畦地さんは生きた。 この間、畦地さんは、折々に「被告」側とされた住民同士が、新たなコミュニティを作りつつも、裁判闘争を強いられていく葛藤、格闘の様子を話していた。そして、ぼくは、お互いと弁護団のために、「この団地に住み続ける」ことの説得的な論理を探って、猛勉強している様子を垣間見させてもらった。
おつれあいの笙子さんは、この映画に一度も登場していない。 彼女は、畦地さんが亡くなってから行われた「制作秘話~未公開映像+完成から一年後の住民インタビュー」で、初めて画面に登場している。 生前の畦地さんの思い、願いを共有してきて、いま「被告」として引き継ぐ意思を表明しているが、同時に、畦地さんと同じではあり得ない戸惑いも語っている。 天上の畦地さんが笙子さんを激励している様子を想像する。重ねて、ご冥福をお祈りしたい。
実は、この11月、私たち夫婦は、40数年住み慣れた、この団地(日野市)から、長女一家の住む傍(府中市)に移り住んできた。この文章は、ここで書いている。老いていく私たちを心配してくれる子どもたちに本当に有り難いと思いつつも、あの団地から去ることの葛藤は大きかった。特に笙子さんなど親しかった友人たちから離れることには後ろ髪をひかれる思いだったが、笙子さんたちの音頭 で、引っ越しに先んじて、こんな機会に、「第三日曜の会」で出会った人々との方の再会のときを作って下さった。
いまでも、ぼくの胸中に去来する畦地さんは、私たちの引っ越しを何と言っているだろうかとおもんばかっている。
(本稿は、『ゆきわたり』 2012年12月号に掲載したものを土台に、本誌用に加筆修正しました。2012/12/28)
(しのはら・むつはる)