いわゆる「りべるたん問題」が勃発して以降、これまで仲良くしていた「りべるたん」のメンバーの中でも、この問題に対する私の考え方や行為に対して「行き過ぎだ」「ジャーナリストじゃない」「失望した」などと批判したり、もう個人的には連絡が来なくなってしまった人たちもいます。
そもそも、私がLINE上で攻撃されたことに端を発するこの問題で、本来無関係な人たちとの関係まで破壊されてしまうのは、全く私の本意ではなく、それはとても悲しいことです。
これまで、私は「りべるたん」内では、基本的に「早川さん」と呼ばれてきました。一部の人には、私の冗談が辛口すぎるとして、「黒川さん」とも呼ばれていましたが(^^;)。
しかし、「りべるたん問題」が起こり、メーリングリストや各種LINEグループなどで、連日の激しい議論の応酬が始まると(半日LINEから離れると未読100件とか> <!)、私の呼び名はやがて、「早川氏」に変わっていきました。
「早川氏とはもう関わり合いたくない」、「早川氏を出禁にすべきだ」、「早川氏に関する諸問題」…。
私はこれまで、誰かから「早川氏」と呼ばれることはありませんでした。「○○氏」という呼び方には、ある種の「尊敬」を表す呼称のようなイメージを抱いていました。(「ノーベル賞を受賞した科学者・○○氏の講演」とか)。
しかし、こうして今回、「早川さん」⇒「早川氏」と呼ばれ方が変化するのを目の当たりにすると、誰かを「氏」と呼ぶのは、必ずしも尊敬としてではなく、「距離感」や「拒絶感」の表現(表明)としても使われるものなのだなぁ、と実感しました。
「早川氏」と呼ばれると、私自身さえ、自分に対して距離感を感じるような気持ちになるので、なんだか不思議です。
でも、この「早川氏」という呼称をめぐり、「仲間である早川さんを早川氏と呼ぶな!」「いや、仲間じゃない!」などと、こんな些細なことで(というと失礼ですが)、LINEグループ内の人たちがバトルを始めるのは、本当に心の痛むことでした。
「早川氏」「早川氏」…と繰り返されるのを見ているうち、やがて、私も自分を「早川氏」と呼ぶようになりました。
「出禁を食らった早川氏です」、「自称・映画監督の早川氏です」等、「りべるたん」に向かってだけでなく、TwitterやFacebookなどでも、半ば自虐的に使うようになりました。ご存知の通り、今では私は「出禁連の早川氏」として、この一連の問題を、ドキュメンタリー制作の問題と絡めて、詳細にブログで報じています。
ブログですから、そもそも読むのは強制ではないものの、これまで他のテーマ(家庭菜園や田舎暮らしなどの牧歌的な内容)で、私のブログ記事を楽しみにされていた方々にとっては、「出禁」「法的措置」「名誉毀損」などの物騒な文言が飛び交う最近のブログは、読んでいて楽しいものではないかもしれません。申し訳ありません。でも私としては、これらは自分に起こっている大問題であり、なおかつ、ドキュメンタリー制作に携わる者として避けては通れない問題なので、こうして日々、詳細に綴っています。
…ですが!
現在問題となっているブログ記事をTwitterで公開した際、全く知らない方から「面白い」というコメントを頂いたのです…!
具体的には、「すごい。目茶目茶面白い。読んだ範囲ではしっかり筋が通っているしバランスも取れているのに驚いた。いまどき、こういうのは貴重。いやでも長い。でも面白い(笑)。こんな世界があったんだなぁ…」と書かれていました。
これが「目茶目茶面白い」ですって…?!?!
突然LINE上で攻撃され、さらに「りべるたん」の決定にもよって怒りが大爆発した私が、この出来事を世に知ってもらおうと必死で書いたブログは、「面白い」のか。。。
さらに、最近頂いたお手紙(りべるたんとは関係ない方)にまで、「早川由美子氏」と書かれているではありませんか!!
しかも、ルッコラの種と上映会の案内状と一緒に(^^)!!
上映会の案内、面白そうな映画です!
別の方から頂いたお手紙と本。
こちらは「早川様」でしたが…
お手紙の最後に、「りべるたんの窓侵入、コントみたい。ごめんなさい」と書いてあるではありませんか!
ほぉぉ…
思いがけず好意的な反応に接し、私は、2011年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で言われた、「あること」を思い出しました。
私の『さようならUR』の上映後質疑応答で、日本語が分からない観客のために、カトリーヌ・カドゥさんがウィスパリング通訳(通訳を必要とする観客たちに、客席の一角に集まって座ってもらい、日本語でなされる質疑応答を、小さな声で同時または逐次通訳する)をしてくださいました。
カトリーヌ・カドゥさんは、通訳者・翻訳者で、映画監督でもあります。日本映画に精通し、黒澤明監督をはじめ、小津安二郎監督や北野武監督作品などのフランス語訳を手がけてきました。映画監督としては、『木場-住めば都-』、『黒澤その道』を制作されました。
私はこの時がカドゥさんと初対面だったため、どんな方か知らず、「通訳してくれた親切な人」ぐらいのノリだったのですが(汗)、ずいぶんなキャリアの方が、私の質疑応答を通訳してくださっていたのですね…!
当時の様子(撮影・提供は山形国際ドキュメンタリー映画祭)
ベトナム・ハノイの映画監督、グエン・チン・ティさんが質問。
通訳をされるカドゥさん。
私の写真も載せてみた(^^;)
上映のあと、夜に日本の参加監督たちの交流会があり、カドゥさんも参加されていました。どのようないきさつかはもう忘れましたが、映画の中で、私がUR(住宅公団)の理事長を直撃取材するシーンがあり、そこで会場が大爆笑となったことに話が及びました。
映画をご覧になり、上映後のトークなども聴いて下さったことがある方は、直撃取材がどのように行われたかをご存知かと思います。私にとっては初めての直撃取材で、それはそれは、もう、心臓が飛び出るぐらいの緊張とプレッシャーの中で行ったものでした。
ジャーナリストの諸先輩方の中には、大物の政治家や社長に直撃取材するのを、むしろ楽しんでやれる強靭な精神の持ち主の方もいらっしゃいます。
でも私は、やり方いかんによっては、逮捕もされかねない取材で、なおかつ、直撃取材を指導してくださった寺澤有さんからは、「理事長がお迎えの車に乗り込もうとしたら、ドアの間に入り込んで、車に乗せないこと」、「車が走り出したら、ボンネットの上に乗ればいい。大丈夫、死なないから」等々言われており、それらの光景を想像するだけでもう、私は崖から飛び降りる気持ちで挑むしかありませんでした。
直撃取材が成功したら、私は撮影素材を持って、どこまででも逃げよう。安全な場所に逃げ、コピーを大量に取ったら、また戻ってこよう。
そう心に決め、Suicaに数万円チャージして新幹線にも飛び乗れるようにし、タクシーでもなんでもいいから、追いかけられたらそれらに乗って、どこか遠くまで逃げるつもりでいました。
そこまでの覚悟で挑んだ直撃取材は、無事成功しました。追いかけられることもなく、無事、自宅に戻ることができました。
しかし、編集する段階で、当時の映像を見なければならないのは、私にはとてもつらい作業でした。映像を見るだけで、当時の緊張感がよみがえり、心拍数が早くなってしまうのです。手に汗をかき、呼吸が速くなる。いわゆる「フラッシュバック」というやつでした。
しかし、それでは編集作業ができませんから、無理やり自分の目を見開いて、20回ぐらい連続で再生しました。そうすることで、映像に自分を慣らし(もしくは無感覚にさせて)、それから編集作業を行いました。
私にとっては、人生を賭けた(というと大げさですが、当時の私にはそうでした)直撃取材で、数分間に及ぶ理事長とのやり取りは真剣そのものでした。結局、映画では、その緊迫したやり取りをノーカットで使いました。
映画が完成し、各地で上映会が始まると、私は観客の意外な反応に驚きました。真剣そのものの、緊迫した理事長直撃取材を、観客たちが「笑う」のです。特に、理事長をエレベーターホールで追い詰めるシーンでは、警備員たちがやってきて、私はいよいよ切羽詰まった状況になってしまうのですが、(取材をやめさせられる前に、これだけは言っておきたい!)と思って発したひと言は、特に「大笑い」されてしまうのです。
フラッシュバックするほど、こわばって映像を見返していた私にとって、この観客の反応は衝撃でした。
なぜここで笑うのか。
ここは笑うシーンではなく、私と一緒に、手に汗を握り怒るべきシーンなのに。
ずっとそれが疑問でした。
でも、映画祭の飲み会でカドゥさんとその話になったときに、彼女から、「必死になればなるほど、観客にとって喜劇になる」と言われたのです。
私が、息を切らしながら、声を上ずらせながら、百戦錬磨のUR理事長を問い詰めようとする、警備員たちが私の取材をやめさせようと走りよってくる、私は警備員を振り切ってエレベーターに乗り込む理事長に向かって叫ぶ…
撮影現場では、「笑い」など到底起こりえない、誰もが真剣そのものの状況でしたが、それをスクリーンで観る人たちにとっては、「エンターテイメント」になるのか。
カドゥさんにそう言われて、改めて、「映画とは…」「エンターテイメントとは…」と考えるようになりました。誰かが必死で何かに取り組む姿、もしくは苦しむ姿。それらを撮るわたし。それらを観る観客。被写体と全く同じ気持ちに入り込むこともあれば、逆に、苦しみ絶望する姿の中に「生」を見出すときもある…。
「笑い」や「エンターテイメント」は、なかなか狙ってやれるようなものではないけれど、何かを必死でやる姿というのは、思いがけず「エンターテイメント」になることがある。
今回の、「りべるたん問題」を報じるブログ記事が「エンターテイメント」にまでなり得ているかは分かりませんが、私が問題に直面し、必死で取り組もうとする姿を、「面白い」と見てくれる人も少なからず存在する。
「早川氏」呼称定着に、そんなことを思いました。