昨日の夕方、高幡台団地73号棟・元住民の方々から、立て続けに電話がありました。73号棟の取り壊し・立ち退きを拒否し、裁判で最後までたたかった元住民の、中川京子さんが亡くなったというお知らせでした。
中川京子さん(『さようならUR』より)
裁判が終わった後、住民の方々は73号棟から引っ越していきました。約半数の世帯は、高幡台団地の別の号棟へ引っ越し、その他の人はURが管理する他の市の団地へ引っ越したり、民間のアパートに引っ越した人もいました。
中川さんは、息子さんのお住まいに近いUR団地(他の市)に移り、一人暮らしをしていました。
中川さんが亡くなったのは3月10日(推定)で、私たちがそのことを知ったのは昨日(3月14日)でした。元73号棟住民たちの、毎年恒例のお花見が今月末にあり、その件で畦地さんが中川さんに電話をしたところ、息子さんが電話に出て事情を知ったのだそうです。
息子さんによると、毎週お掃除に訪れるヘルパーさんが、3月12日、中川さんの応答がないのを不審に思い、息子さんと共に鍵を開けたところ、中川さんは室内で倒れ、すでに亡くなっていたそうです。。。
検死の結果、亡くなったのは3月10日と推定され、死因は虚血性心疾患ではないかとのことでした。
私は、去年の暮れに中川さんと会う約束をしていましたが、その日はとても寒く、中川さんは風邪を引くといけないから…と、その予定は直前にキャンセルとなりました。
なので、中川さんと最後にあったのは、昨年夏の高幡台団地の夏祭りでした。
まさか、それが最後になってしまうなんて…。
私は「取材」という名目で(!)、『さようならUR』の撮影期間中もその後も、しょっちゅう中川さんのお宅にお邪魔し、ご飯やお菓子をごちそうになりながら、色んなお話を聞かせてもらったのでした。
なつかしーー!
麻布十番の生まれで、いかにも「江戸っ子」という気質の中川さんは、他の住民たちが裁判を躊躇する中で、当初から「裁判してでも立ち退きを拒否する」と言っていました。
そんなことをあっけらかんと語る様子に、私はとても驚いたのを覚えています。
立ち退き裁判について語る中川さん(『さようならUR』より抜粋)
何かの縁で、私の映画の被写体となり、親しくしていた人がこの世を去るのは、もちろん悲しく、寂しいことなのですが、でも、その悲しみと同じぐらい、(撮らせてもらえて良かった!)という感情が湧いてきます。
「思い出」とか「記憶」というものは、形がなく、曖昧なものですが(だからこそ美しくもあり、忘れたり、風化していくものですが)、私の場合は、その人(たち)との思い出が、映像として確実に「ある」し、その人は映像の中でずっと生き続ける…(言葉にしてしまうとずいぶん陳腐ですが…(> <)!)
10年以上ドキュメンタリーを作り続けていれば、被写体として深く関わった人たちのうち、すでにこの世を去った人も何人かいるのですが、最近はなんだかこういう風に考えるようになりました。
最後に撮った中川さんの写真を、以下にご紹介します。2017年7月15日、高幡台団地の夏祭りにて。
私が取材をしていた2010年当時は、73号棟の建物の前に盆踊りの立派なやぐらが設置されていましたが、近年は住民の高齢化が進み、やぐらを建てられなくなったそうです(どこの団地や自治体でも起こり始めている現象です)。
いまだ更地のままの73号棟跡地!! 昨年夏の時点で、用途さえ決まっていませんでした!! 2008年に住民に立ち退きを求め、数年間に及ぶ裁判まで起こして立ち退かせ、その後5年以上も空き地として放置したままなんて、URの経営感覚はやっぱりおかしいです。
別角度から、73号棟跡地。
高幡台団地・自治会のブース。「73号棟の跡地をどうするか、皆さんで考えましょう」って、それ、今の時点で言うこと?!?!
他団地に引っ越した中川さんにとって、久しぶりの高幡台団地訪問は、ちょっとした同窓会状態(^^)
夜になると、どんどん懐かしい顔ぶれが(^^)
中川京子さんのご冥福をお祈りします。