8月21日、台東区の「泪橋ホール」にて、「流れの必然―伊藤ルイから旗野秀人へ―」というイベントが開催されました。
イベントの開催趣旨とプログラムについて、案内チラシより引用紹介します。
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流れの必然―伊藤ルイから旗野秀人へ―
2022年8月21日(日) 映画喫茶・泪橋ホール
今年 2022年は、佐藤真監督映画『阿賀に生きる』(1992)が公開されて 30年目にあたります。この記念の年に刊行された『伊藤芳保写真集 「阿賀に生きる」30年』(冥土連、2022)のあとがきには、こう記されています。「福岡県に住む、友人の伊藤ルイさんから一通の葉書が届きました。「若い映画監督の佐藤真さんが、今度新潟水俣病の映画を3月あたりから現地に住み込んで作るので、そのうち一度訪ねてみてはいかがですか…」といった内容でした」。いみじくも本年はまた、伊藤ルイ(1922- 1996)生誕 100年の年でもあります。本企画は、映画『阿賀に生きる』を契機として、100年あまり のひとりの一生をはるかに超えて、すでにこの世にいない人と、そしてこれから出会う人とがどうつながってゆけるのかを、この写真集を観賞することを通して、また、『阿賀に生きる』、同監督の『阿 賀の記憶』(2005)の続篇ともいうべき、佐藤睦監督映画『それからどしたいっ!「阿賀に生きる」その後』(2022)の上映を通じて、考えてみたいと思います。
[タイム・スケジュール]
14:00-15:00 映画『阿賀に生きる』ダイジェスト上映(50分)+ ショート解説
15:00-16:00 『伊藤芳保写真集「阿賀に生きる」30年』スライド上映 + 伊藤芳保&旗野秀人トーク
16:00-16:10 休憩
16:10-18:00 映画『それからどしたいっ!』上映(80分)+ 佐藤睦&旗野秀人トーク
(司会・進行:今村純子)
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伊藤芳保さんの写真展! さらにスライド上映&トーク! これは行かねば!!…ということで、ビデオカメラを担いで泪橋ホールへ。
事前に会場について調べたところ、映画喫茶でありながら「餃子」が名物との情報発見。
私は、泪橋ホールに行くのが初めてだったので、せっかく行くなら餃子を食べたい!と思いました。しかし、イベントも開催する飲食店にはよくあることですが、イベント開催時には食べ物の提供はしません、というお店は少なくありません(人手の問題やイベントの進行に影響があるため)。
そこで、お店に事前に電話をし、8月21日のイベント時でも餃子を食べられるのかどうかを確認しました。我ながら用意周到!と感心しますが、しっかりご飯が食べられるのかどうか、これは撮影時の士気に関わる重要な問題ですからね!!(ちなみに、問い合わせたのは餃子に関してだけで、撮影するための会場レイアウトなどは聞いておりません^^;)
お店より「イベント当日も餃子は食べられる」と聞いて、当日は安心して会場に向かったのでした(^^)
撮影の場所確保のため、早めに泪橋ホールに伺うと、ちょうど伊藤さんたちが会場の設営をしているところでした。
写真集の一部を、パネルにして壁に展示。
写真は伊藤さんが、映画『阿賀に生きる』の制作開始時から毎年の追悼上映会まで、実に、30年以上に渡って阿賀に通い続けた記録です。
伊藤さんの写真集「阿賀に生きる」30年
サインペンを持参し、サインをお願いしました! 伊藤さんは「サインをするのは初めて」とのこと。
書いていただいたサイン(^^)
昔の映画のポスターが貼られた、味わい深い店内。
この日、私は伊藤さん以外の方は、初対面の方々ばかりでした。映画『阿賀に生きる』を観たのは、たしか5~6年前のことで、しかも一度だけ。この映画の仕掛人だという旗野秀人さんとも、初めてお会いしました。
この日のイベントには、とおく関西からも、阿賀に通って〇年、〇十年…というような、筋金入りの阿賀野LOVEな方々がたくさんいました。
私は、深夜のドンキでノリで買った「八王子最強」というTシャツを何も考えずに着ていってしまい、当日は「なぜ八王子なのか?」とか、「八王子が最強なのか、それとも八王子の最強なのか?」と真顔で聞かれたりしました。
時すでに遅し…ですが、TPOという言葉が頭をよぎりました(^^;)
写真展パネルの前で、伊藤芳保さんと(撮影:佐藤睦さん)。
旗野秀人さん、伊藤さんと(撮影:伊藤さんの娘さん)
余談ですが、懇親会の席でこのTシャツから出身地の話になり、兵庫県西脇市出身の方とお話ししました。私は2014年に、西脇市を訪れたことがあるのです! 福島原発事故後、「平等党」という政治団体を立ち上げ、東電の記者会見に出席し、盛んに質問をしていた田中昭(あきら)さんが、故郷の西脇市に戻られたので、関西方面に行く途中、西脇市に立ち寄ったのでした。
その際、田中さんの親戚の田中蔚(しげる)さんを紹介され、ご自宅で雑談がてらのインタビューをさせてもらいました。蔚さんの娘・愛子さんは、1985年の日航機墜落事故で帰らぬ人となってしまったのですが、同和地区出身だったために「彼女が乗っていたから穢れて墜落した」というとんでもない誹謗中傷を受け、愛子さんの死後、学校教員だった蔚さんは差別撲滅のために全国を講演して回ったそうです。
懇親会の席で、私が西脇市を訪れ、田中蔚さんのご自宅でインタビューをした…とお話ししたところ、なんとその方は愛子さんについて調べ、論文を発表されている方だったのでした!!
後日、私が撮影した蔚さんのインタビュー映像を見せてほしいと連絡をいただいたので、当時の撮影映像ファイルをネット経由で送りました。
MiniDVテープのデジタル化と整理を終えた後だったので、当該データはすぐに見つけることができました(^^)
(とはいえ、インデックスカードの内容記述が「田中昭さんを訪ねに兵庫県西脇市へ。90代のおじいさんを撮る」だけなんて、大雑把にもほどがありますね!!)
田中蔚さん、インタビューの様子
当日蔚さんを突然紹介していただき、背景・事情などよくわからないままに、雑談風のインタビューをしました。私の質問はあまり的を得ておらず、蔚さんの記憶も細部のつじつまが合わない状態だったので、残念ながらこのインタビューはお蔵入りとなってしまいましたが、研究者の方に観て活用してもらえるのは良かったです!
田中愛子さん
その研究者の方によれば、蔚さんは数年前に亡くなったそうです。生きておられれば、今年で100歳。部落差別の解消を目指した人権宣言「水平社宣言」からも100年。そして、今回のイベントの根底にある、伊藤ルイさんの生誕100年でもあります。
これも時代の必然か…そう思わざるを得ませんでした。
さて、話が若干それましたが、会場の設営が終わり、サインもしてもらい、待ちに待った(私だけ?)お昼ご飯の時間がやってきました!
迷わず、餃子定食を注文!
名物餃子、うれしい… もちろんおいしかったです(^^)
ちなみに、私はふだんからそんなにお酒は飲まないほうです。飲み放題プランでも、せいぜい2~3杯ぐらいで満足。ましてや、撮影や、自分が登壇するイベントの最中には絶対飲みません。しかし、この阿賀野組(?)の方々は、イベントが始まる前から次から次へと瓶ビールを注文するのでした!
まるで打ち上げのような光景ですが、まだ開場前です(- -)
私は、注いでもらったビールに口だけつけました(^^;)
さて、開場の時間になりました。あっという間に会場は満席!
私は、(どこから撮ろうか…)と悩みましたが、会場が狭く、しかも超満員の場合は、最前列から撮るのが一番邪魔されるリスクが少ないだろうと考え、近すぎではありましたが最前列に座りました。
最初に、司会・進行役の今村純子さんから挨拶があり、映画『阿賀に生きる』のダイジェスト版が上映されました。
上映の後は、いよいよ伊藤さんの出番です!
会場の様子。
向かって左から、伊藤さん、旗野さん、写真集の編集者・デザイナーの上田浩子さん。
写真集の中から、今村さんが選んだ数十枚の写真について、伊藤さんが解説し、適宜旗野さんがコメントをするという形式でトークが進みます。
スライド上映+トークの映像(64分)については、以下をご覧ください。
トーク終了後、伊藤ルイさんの娘さん・福岡在住の王丸恵子さんからの花束が、お二人に贈呈されました。
休憩をはさみ、後半は映画『それからどしたいっ!「阿賀に生きる」その後』の上映が始まりました。この映画は、『阿賀に生きる』完成後、今日に至るまで続けられてきた追悼上映会の様子や、映画にまつわる人々のその後を、旗野さんたちがビデオカメラで記録し、佐藤睦さんが編集したという作品です。
『それからどしたいっ!』予告編
上映後トークの様子。
向かって左から、佐藤睦さん、旗野さん、川﨑那恵さん。
司会・進行役の今村純子さん。
トークの映像(45分)は、以下よりご覧いただけます。
この日、私は経産省前脱原発テントの山本礼治さんと一緒に参加していました。私は原発の問題については、集会やデモに時々参加しそれなりに学んでいるつもりですが、水俣病や、新潟水俣病に関しては不勉強のため、教科書に載っているぐらいの事柄しか知りません。
この日のトークを聞きながら、「漁師でもない屋根職人が、なぜ水俣病になる? ニセ患者ではないのか?」と疑われたり、歌が大好きで歌っていると「患者なのに元気に歌を歌っている」などと批判されてしまう、「患者は患者らしく」という差別が、原発事故の被害者・避難者たちに向けられるまなざしと全く同じだと感じました。
私の隣でトークを聴いていた山本さんも、「原発の問題と全く同じ構造だ」と驚いていました。水俣病で起こった問題は、今も変わらずこの社会に在り続けている…と感じました。
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ところで、伊藤さんと私の出会いは、2011年11月、経産省前の脱原発テントでした。私が脱原発テントを初めて訪れた日、伊藤さんもまた、初めてテントを訪問していたのです!
詳細は私の旧ブログに書いてありますが(こちら)、以下はそのときに撮影した写真です。
その時に撮影した映像:「在りし日の経産省前テントひろば(2011年11月19日)」(8分)
この日も、伊藤さんはテント前で色々と写真を撮っていました。私ももちろん、映像や写真を撮っていましたが、「撮影者あるある」ですが、他人を撮ることに夢中で、自分自身が映っている写真というのはほとんどないのです。
ですから、この日、テントの前で伊藤さんが撮ってくれた私の写真はありがたく、その後プロフィール写真にも使わせていただいたのでした。
その後、私の上映会に来てくださったり、強制執行後の脱原発テントを丸木美術館に展示した際には、最終日の解体作業を手伝いに来てくださったり…と、お世話になりました。
丸木美術館「今日の反核反戦展」。撤去された脱原発テントを、丸木美術館のベランダ部分に再建展示しました。
せっかくなので、当時の写真を紹介します。
約2か月の展示後、最終日に解体作業をしました。以下の写真には、数年前に亡くなられた、馬場さんの姿(向かって左)も…。
テントの解体作業。丸木美術館のベランダが三角形だったため、支柱の一部を地上部分まで長く伸ばして支えていました。
静岡・ひまわり集会の石塚定治さんも、作業に参加してくださいました。
家業が植木屋の伊藤さんも、高所作業で大活躍してくれました。
皆さんの協力とチームワークで、無事、解体作業を終えることができました(^^)
実は、このときに伊藤さんと山本礼治さんは一緒に作業をされたのですが、先日、泪橋ホールで再会した時には、お互いに思い出せないようでした。
でも、この解体作業の日、当時私が住んでいた家の「雨どい」を掃除するためにハシゴに登った人ですよ…というと、伊藤さんは「あのとき、革靴で登った人!」と、すぐに思い出したのです!
一体なんのことかというと…
テント一式を運んだあと、私の家の雨どいに草木が詰まっているのをみて、伊藤さんと山本さんが雨どいの掃除をしてくださったのです。
伊藤さんは植木屋さんですから、ハシゴに登るのはお手の物。高いハシゴに登るのも、安心してお任せすることができました。
1階部分の雨どいの掃除をしてもらえれば、私としてはそれで十分でしたが、山本さんが「2階の雨どいの掃除もする」と言い出したのです!! ハシゴを2階まで伸ばすのはとても危険なので、皆が大反対しましたが、山本さんは決行(> <)
革靴でするすると登っていき、雨どいの掃除を!!!
落っこちてしまわないか、ハラハラしながら見守りました(> <)
山本さんは、その後無事、滑ることなく地上に降りてきてくれて、一同安心しましたが…。
高所作業のプロからすれば、滑りやすい革靴で長いハシゴを登るなんて、あり得ないことなのでしょう。伊藤さんは「革靴であの長いハシゴを登った人」ということで、山本さんのことを思い出したのでした(^^;)
お互いを思い出した後、泪橋ホール前で記念写真(^^)
以上、8月21日の「流れの必然―伊藤ルイから旗野秀人へ―」イベントレポートでした!
追記:伊藤芳保さんの写真展は、9月13日(火)~9月25日(日)のあいだ、山形県の「川西町フレンドリープラザ」でも開催されるそうです。詳しくは、こちらの案内をご覧ください。