昨日は、赤坂区民センターで開催されたシンポジウム、「公共住宅団地と都市再開発~その実態と居住問題」に参加しました。
数ヶ月前、「住まいの貧困に取り組むネットワーク」世話人の坂庭さんに、「UR北青山三丁目市街地住宅」で、建物の耐震性不足を理由とした追い出しが行われていると聞き、どのような問題なのか知りたいと参加したのでした。
当日のプログラム内容は以下。会場は、事前に準備した資料・椅子が足りなくなるほど、多くの人が参加していました。
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シンポジウム:公共住宅団地と都市再開発―その実態と居住問題
~UR北青山三丁目市街地住宅をめぐる諸課題
2020年東京オリ・パラ開催を前に、港区北青山三丁目地区で大規模再開発が進められています。地区内にある「都営青山北町アパート」は取り壊し、建替えなどが行われ、開催時の大規模駐車場も計画されています。この都営アパートに隣接してUR北青山三丁目(第一)市街地住宅があります。この住宅団地は1964年東京五輪の1年前に建設(11階建・戸数251戸、うち124戸は女子単身住宅)されました。昨年3月UR(都市再生機構)は居住者に対して、「耐震改修」ができないことを理由に2020年3月までの退居を通告しました。
居住者の方々は納得できないと声を上げています。大規模再開発の目的は、「都有地をいかし、質の高い民間開発を誘導しながら青山通り沿道との一体的まちづくりを段階的に行い、東京の国際競争力強化を図る」(東京都都市整備局の事業方針)というものです。
UR市街地住宅はこの「沿道一体型開発」に組み込まれる計画です。2020年を前に東京都心で何が起こっているのか、再開発と住宅・居住をめぐる諸問題を北青山三丁目地区の実態を通して検討し、居住者支援、打開策を考えます。
【プログラム】
≪第1部≫ UR北青山三丁目市街地住宅をめぐって(報告、発言、提案)
○UR住宅自治会・居住者から、○居住者支援の弁護団から
○国民の住まいを守る全国連絡会から、○新建築家技術者集団から
≪第2部≫ 都市再開発と居住問題―第1部の報告、発言、提案も受けて
○各地の都市再開発の実態と住民運動など
【開催団体】 国民の住まいを守る全国連絡会、住まいの貧困に取り組むネットワーク、新建築家技術者集団、住宅会議(関東会議)
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シンポジウムの様子
第1部ではまず、UR北青山三丁目市街地住宅の住民から発言がありました。今からちょうど1年前の2月22日、URから居住者宛てに「説明会を開催する」という通知が届き、そこで突然、この建物は耐震性に問題がある、耐震改修は費用がかかるので行わない、住民は2020年3月までに立ち退くようにと、一方的に説明を受けました。
東京五輪の1年前(1963年)に建設されたこの団地には、長年住み続けてきた高齢・単身の住民も多く、この場所を「終の棲家」と考えている人も多いそうです。私は、『さようならUR』の撮影時、泣く泣く転居する高齢者たちが、「引越しは命がけ」と言い、引越し後、家の間取りが変わるだけで痴呆症状が出てしまうケースを、間近に見てきました。
立ち退きは、住民の生死にも関わる重大な問題ですが、URからの事前のヒヤリングなどはなく、説明会の開催も1回だけだったそうです。
住民たちは、このURの姿勢に不満を抱きつつも、1年後に迫った転居期限を前に、転居先を探している人もいます(特に団地内の単身女子住宅は、各戸にはトイレ・風呂がなく、ボロボロの共同トイレ・有料のコインシャワーしかないという住環境で、妥当な移転先があるのなら出たいと考えている人も、少なくないそうです)。
しかし、なるべくこれまでの住環境が変わらないようにと、近隣(港区・中央区・品川区など)のUR団地を探すも、このエリアのURは高級マンションばかりで、とてもじゃないが手が出せない。さらには、高級賃貸物件にもかかわらず、ほとんど空きがありません(ビックリ!)。
また、民間の賃貸住宅では、高齢者の一人暮らしの場合、経済的に問題がなくても、保証人を立てても、大家は孤独死発生などを懸念して、入居を断られるケースがあります。その点、(一応)公的住宅であるURの場合は、保証人不要・更新料不要で入居できるので、「できればUR住宅に住み続けたい」と願う住民が多いのです。
高齢・低所得の住民の場合は、都営住宅の入居資格を満たす人もいますが、この近隣の都営団地の場合、「宝くじに当たるより難しい」と言われるほどの高倍率で、実際、「50年間、都営に応募し続けているが落選している」と言う住民もいました。
なので、なかなか引越し先さえも見つからないという状況です。
住民の方のお話に続き、今度は弁護団からの説明がありました。今回の問題が発生した際、困った住民たちは、とある区議が開催している相談会に参加し、この問題を相談したところ、現在の弁護団を紹介されたそうです。
住民の代理人となった弁護団はまず、URに詳しい説明を求めました。UR北青山三丁目市街地住宅は、建築当時の耐震基準は満たしていますが、その後1981年に耐震基準が改正されたので、現在の耐震基準は満たしていません。(1981年以前に建った建物は巷に溢れています。もちろん、それら全てを取り壊し、建替えることなど出来ませんから、耐震改修工事を施して新耐震基準にするための技術は、日々進化しています。技術革新に伴い、工事費用も下がります)。
URが耐震改修は費用がかかりすぎるとした根拠は何か、どのような改修工事を想定したのか等、弁護団は詳しい説明を求めました。
弁護団の要請を受けてUR側が提出したのは、いわゆる「海苔弁」と呼ばれる、真っ黒塗りの資料でした。分厚い資料ではありますが、ほぼ全頁にわたる黒塗りで、そこに何が書かれてあるのか、超能力者でもない限り読み取ることは出来ません。
・・・!
私は、『さようならUR』で、高幡台団地73号棟を取材して映画にまとめ、その後の裁判も追い続けていた時、(裁判には負けるかもしれない、しかし、これだけの住民の抵抗を受けて、URは今後、同じ問題が起きたときに、さすがにもう少しはマシな対応を取るようになるだろう)と思っていました。そして、そうなるだけでも、この裁判を起こした意義があると考えていました。
しかし、北青山三丁目市街地住宅の問題で、URは住民に対して、そし弁護士に対しても、73号棟のときと、何ら変わらない対応を繰り返しているのです。がっかりを通り越して、もう、呆れるしかありませんでした。
弁護団は、引き続きURに対し説明を求めていくと言いました。具体的には、耐震診断資料の開示、改修工事の要請、転居を求めるのであればこちらが提示した条件にせよ(港区等移転先を限定した転居、退去費用の上乗せ)などです。
対URの方針を説明したあと、弁護士からは、裁判になった場合について、高幡台団地73号棟の裁判結果も引き合いにして、説明がなされました。73号棟の裁判は、耐震性不足を理由とする除却では、UR団地で初の裁判と言われているので、参考になる部分が多いのだろうと思います。(もちろん、オリンピックを見据えた再開発の一等地と、10年前の東京郊外の団地という、立地条件の違いは大きいですが)。
73号棟の裁判の場合は、一審でUR側の主張を全面的に認める判決が出て、二審の途中で和解で決着しました。和解の条件は、URが最初(2008年の住民説明会時)に提示した条件で退去するというものでした。(URは、提訴時には、退去期限から明渡し日まで、家賃の1.5倍の損害金を支払えと要求していましたが、和解時の条件からは外しました)。
73号棟の裁判結果を踏まえ、弁護士は、退去せず住み続けることの「経済的なメリット」を紹介しました。退去期限を過ぎて住み続ければ、いずれURから立ち退き訴訟を起こされるのですが、73号棟の裁判で、和解時には説明会当時の条件で立ち退くことができたのだから、その間(裁判闘争をしている数年間)は、現在の家賃のままこの場所に住み続けることができる、退去期限で近隣に移転していたら、高い家賃になる場合が多いのだから、その分、経済的には得をしたと言える・・・このような説明でした。
私はこの説明になんだか違和感を感じました。
裁判闘争をしながら住み続けることは、「経済的なメリット」だったのか?
実際、裁判闘争中の73号棟の住民たちの生活を見てきた者として、あの生活・精神状態が「経済的なメリット」だったとは、到底言いがたいと私は思います。
73号棟の裁判では、問題が起きた2008年から2013年の裁判終了時までずっと、お盆とお正月を除いて毎週、火曜日の夜にミーティングを開いていました。現役で働く世代の人は、この日は早めに仕事を切り上げる必要がありましたし、平日の昼間に行われる裁判では、有給休暇を取って出席していました。
裁判闘争をするには、支援者や支援団体とのつながりも大事です。彼らが開催する集会にも、当事者ですから出席することが必要でした。集会は都内で行われることも多く、往復の交通費やほぼ毎度の懇親会(飲み会)の費用もバカになりません。
また、退去期限を過ぎると、URは家賃を受け取らないので、借主としての義務(家賃の支払い)を果たすために、法務局へ家賃相当の金額を供託する必要があります。法務局は千代田区にあるので、高幡台団地のある日野市からは随分遠く、時間も交通費もかかります。そこで、住民たちは毎月当番を決め、その人がその月の家賃を集め、法務局まで納めに行っていました。7世帯分の家賃となると高額ですから、持ち運びのプレッシャーもあります。
上記のような、裁判闘争をたたかうことの時間的・物理的な負担に加え、それ以上に重くのしかかっていたのは、精神的な負担でした。(最近はそうもいえない世の中かもしれませんが)、大抵の人は裁判とは無縁に一生を終えます。私人同士のトラブルによる訴訟ならまだしも、国の息がかかった巨大な独立行政法人から、人生の晩年になって裁判を起こされるとは、夢にも思わないで暮らしてきた住民がほとんどです。
裁判はいつまで続くのか、負けた場合はどれだけのお金を払うのか、これからどこに住めばよいのか・・・。支援者・支援団体はいても、しょせんは他人。離れて暮らす子どもたちや親戚からは、「国と裁判しても勝ち目はない」と反対されているケースが多いので、子どもたちにも頼りたくない・・・。毎週のミーティングや集会では元気になっても、ひとり家に帰ると、将来への不安が襲ってくると言う人も、少なくありませんでした。
それでも裁判を続けたのは、「URのやり方はおかしい」という気持ちからでした。ですので、73号棟の住民たちは、「経済的なメリット」から裁判をたたかったのではありませんし、和解後も、振り返って「結果的には経済的なメリットがあって良かった」という感想は聞いたこともないし、それは当事者感情としてちょっとあり得ないだろうというのが、私の率直な気持ちです。
弁護団からの説明に続き、今回のUR北青山三丁目市街地住宅問題の支援団体であり、シンポジウムの主催者団体でもある、「新建築家技術者集団」の鎌田さんと「国民の住まいを守る全国連絡会」の坂庭さんから、それぞれ発言がありました。
元UR職員でもあるお2人は、URが、かつての公的な存在意義を忘れ、ディベロッパー同然に再開発を推し進め、耐震改修よりも経済性を重視し住民を追い出すことについて、問題提起をされました。
両団体とも、73号棟の問題発生当初から支援し、関わってきた団体であるため、ここでもまた73号棟の裁判が引き合いに出されました。裁判所の判決が、「迷判決」といえるほど、論理の破綻したひどい判決であったこと、73号棟裁判は、地域住民らが支援組織を作って支えてきたこと、などが話されました。ですが、あの裁判を振り返ってどうだったのか、たたかい方にはどんな問題があったのか、支援団体のかかわり方はどうだったのかといったようなことは、話されませんでした(もちろん、時間の制約もあったと思いますが)。
73号棟問題の時と、URのやり方が全く同じ、そして支援団体の構え方もさして変わらない(あの時こうだったから、それを踏まえて今度はこうする・・・といったような姿勢・発言が見られない)と感じたので、私はシンポジウムの第二部で発言を求められた際に、73号棟問題・その後で感じたことをお話しました。同じような問題に、今、再び関わろうとしているのならば、ぜひ知っておいて欲しい・考えてほしいと思ったからです。
この記事では、昨日の発言に加え、背景事情の説明も加えます。
まず、「73号棟問題では、地域の周辺住民による支援団体があった」という点ですが、こと住宅問題では、周辺住民の理解や支援を求めることが、逆に難しいです。高幡台団地内で突出して大きな建物であった73号棟は、近隣の住民からは、「耐震性が不足しているなら、倒れてくると怖い」と不安がられていました(耐震工事をしなければ、不安に思うのも当たり前ですが)。また、退去を拒否する住民たちに対し、「彼らはごねて、立ち退き金をつり上げようとしている」と、真顔で言う人もいました。
このように、住宅問題の場合は、利害の近い周辺住民や家族・親族には、逆に理解を求めにくいというケースが少なくありません。73号棟問題の場合、坂庭さんが言う「周辺住民による支援組織」というのは、実際には、日野市や高幡台団地に住む共産党員が中心となったグループ(名称は「高幡台団地を考える会」)でした。
もちろん、共産党メンバーが中心になって支援団体を組織しても構わないのですが、問題は、73号棟の問題と共産党の活動を混同する場面が度々あったことでした。
73号棟の裁判で、原告になった人たちの全員が共産党員だったなら、それでも問題なかったと思います。しかし実際には、共産党員、もしくは共産党に近い世帯は、ほんの数世帯しかありませんでした(私が取材を開始した当時、残っていた9世帯のうち2世帯)。
73号棟の問題が起こったとき、住民の会が立ち上がり、「私たちはここに住み続けているぞ!」という意思を外に向かってアピールするため、昔の映画「幸せの黄色いハンカチ」にならって、黄色い布を各自のベランダに掲げようと提案した住民がいました。
その提案を採用するかどうかは、住民の会メンバーで決めればよいことですが、会議で、「共産党の支部に確認する」⇒(後日)「支部がOKしたので掲げましょう」と言われ、非・共産党員である元住民は、とてもびっくりしたそうです。(私たちの運動は、いつのまに共産党の管理下に置かれてしまったのか?)、と。
他にも、「しんぶん赤旗の購読を勧められた。断りにくいので、日曜版だけ購読している」、「この問題を支援している市議の、選挙ポスター貼りに借り出された」など、どれも、勧誘する側にとっては「たわいもない」「悪意はない」お願い・お誘いかもしれませんが、73号棟の住民にとっては、運動を支援するのと引き換えに、党の活動も手伝えと言われているようで、気持ちのよいものではありません。
ここで、誤解のないように言っておきますが、私は「共産党」を槍玉に挙げて批判したいのではありません。そして、「共産党の問題」として矮小化したいのでもありません。高幡台に限らず、団地(特に自治会)では、「共産党」「公明党」の縄張り争いが多くあり、「公明党」が強い団地ならば、そこでも同じような問題が起こる可能性があります(支援と引き換えに、活動に加わることを暗に求められる)。
また、団地に限らず、共産党に限らず、様々な社会問題に、「支援」として関わる人・団体が、住民運動に、なんらかの党派性・組織的な活動を持ち込んでしまう、当事者は支援してもらっている手前、なかなかそれを嫌だと言い出しにくい・・・そのような構図は、他のところでも見受けられるのです。
支援者・支援団体は、そのことを自覚し、支援はしつつも、相手は別人格である、彼らの当事者性を尊重するということを、いま一度気をつける必要があります。
73号棟裁判の、弁護団との関係についてもどうだったか書いておきたいと思います。一審の判決は、前述したように、想定していたよりもずっとひどい内容の判決でした。そして、判決の内容に仮執行が出来る旨書かれていたことも、弁護団にとっては衝撃でした。
地裁の結果を受けて今後どうするかを決める際、弁護団のトーンは、それまでと随分変わりました。たとえ負けても、最高裁までたたかい続けたいとかねてより表明していた住民も数名いましたが、高齢であることを心配されたり(高齢を理由に心配するなら、そもそも最初に裁判を勧めるのがおかしいのでは!)、「自分ひとりでは戦えないけど、他にもたたかう人がいたら続けたい」という人に対し、裁判は戸別(個別)の案件なのだから、他の人に相談しないで自分で決めること、と、突然、住民同士の交流を遮断するようなことを言われたり・・・と、弁護団の突然の変わりように、戸惑い、不信感を持つ住民もいました。
最終局面で、共にたたかって来た住民同士が相談できず、ひとりひとりで判断をするよう求められ、結局は全員が和解に応じ、裁判を終結させる道を選びました。自分で決めたこととは言え、これまで、支援団体や弁護団に、さんざん「声を上げる市民」として持ち上げられ、お神輿に乗せられてきた住民が、翻弄された挙句に取り残される姿を見るのは辛かったですし、今でも会うとその時の不満を漏らす元住民も、少なからずいます。
私が記憶している限り、この73号棟の問題に関して、住民主催の、和解後の報告集会は1度開催されましたが、支援団体や弁護団が、住民も交えてこの問題を総括する会議や集会を開いたことはありません。(個別では総括していたのかもしれませんが)。
支援団体や弁護団にとっては、その問題が、裁判でも和解でも決着すれば、そこでもう区切り・終わりなのかもしれません。しかし、たたかった住民の人たちは、当たり前ですがその後も人生が続くのです。むしろ「祭りのあと」のケア・支援のほうが、よっぽど重要だったりするかもしれません。
とは言え、私は、支援団体や弁護団だけが悪かったとも思いません。当事者(73号棟住民)の側にも、支援される・担がれることへの、ある種の「甘え」「思い違い」も生まれていたと思います。社会運動に全く関わったことがなかった人が、突然、声を上げる市民としておだてられ、ありがたがられ、何かしてもらうことに慣れてしまったり、専門家に丸投げして任せきりにしたり、「あなたたちがあの時こう言ったから、私は立ち退かないことにしたのだ」と、重要な判断を相手のせいだけにしたり・・・等、こちらも数えればキリがありません。
ドキュメンタリー制作者である私は、どこの団体にも属していませんが、分類としては私も「支援者」に含まれると思います。私自身の、住民たちとの関係は、果たしてどうだったと言えるのか。当事者と支援者、支援する側・される側、お互いに自立し尊重しあう人間関係は、どのように築いていけるのか・・・。
「UR北青山三丁目市街地住宅」の問題が発生し、各種支援組織や弁護団が発足したばかりの今だからこそ、あらためて考えたいテーマだと思います。